平安京采女正・賀美能宿禰

賀美能宿禰は大秦公忌寸浜刀自女として伊豫国神野郡(現在の愛媛県新居浜市)に生まれました。
神功皇后・応神天皇の流れを汲む天智天皇(葛城皇子)の血胤であり、山背国葛野より国の造宮録として神野郡へ転地した一家の子女にあたります。

桓武天皇からの御声掛けにより平城京から遷都された長岡京で皇室の官職である采女として宮中に仕えることになります。皇后・乙牟漏亡き後には桓武天皇の第二皇子(後の嵯峨天皇)の乳母として育児育成に尽力しました。

延暦十一年には嵯峨天皇の諱が浜刀自女の出身地である神野郡から賀美能(神野)親王と命名がなされ、同じく功績を認められた浜刀自女も桓武天皇より賀美能宿禰の姓を賜りました。
六国史・続日本紀の皇室記録にもこれらの記述が残されています。
「延暦十年(七九一)正月甲戌【十三】甲戌。大秦公忌寸浜刀自女賜姓賀美能宿禰。賀美能親王之乳母也。」

延暦十三年、長岡京から愛宕・葛野の平安京への遷都が成され、山背国から山城国誕生への運びとなりました。
大同四年には賀美能親王が第五十二代日本国天皇・嵯峨天皇として即位します。これにより育ての母でもある賀美能宿禰の出身地名が天皇の諱と重なる為、神野郡に変わる新しい群名として新居郡が誕生することとなりました。神野郡の丹比井郷の名を淵源として新たなる門出の意を込めて嵯峨天皇より新居と命名されたと伝えられています。(新居誕生史)
新居郡への改称は菅原道真編纂の類聚国史などでも大同四年と同じく記述されています。
「嵯峨天皇大同四年九月乙巳、改伊予国神野郡為新居郡、以触上諱也」

その後は采女司の長官である采女正として采女の育成にも尽力。平安宮大内裏で嵯峨天皇や皇族を支えながら都や国の興隆に努めました。




石鈇上仙道・川上三宝荒神社・早川棚田群平安づつみ

弘仁時代に平安宮の退宮に合わせて帰郷した賀美能宿禰はこの伊豫の地で神野采女正として新たな人生を歩みました。
自身が建立した石鈇山往生院正法寺の山裏であり、御陵石の咫尺となる笹ヶ峰山麓早川峠(旧新居郡大生院村・現在の西条市)に地頭として定住したとあります。
嵯峨天皇の命により山城から多くの土木開拓者がこの地を訪れました。長岡京・平安京の造営を手掛けてきた巧みな技術力によってこの地域の開発は大きく進められ、山麓部の農地開拓や宅地化に合わせて二つの河川が整備され、その川は山城の地より「室川」、「渦井川」と命名されました。
この際に早川峠に築き上げられた広大な石積の棚田群は多くの穀物を実らせながら時代を歩み、農作物の新たな市場が形成された文政年間には「平安づつみ」とも賞され、現在でもこの山麓一帯に広がっています。

室川の上流域には奈良時代に寂仙法師が伊豫三名山へと繋げた石鈇上仙道が続いています。
この入山口には山の神・屋敷神・村落神でもあり、大和朝廷を守護した伊豫守源頼義所縁の三宝荒神(大荒大明神)社が祀られており、これまでに多くの修験者を見届けてきました。
時代の経過とともにこの険しいルートでの登山者を見掛けることは無くなりましたが、現代においても岩膚に鎮座された川上三宝荒神社「お荒神さん」がこの山麓地域の暮らしや安全を、そして我が国の繁栄を静かにお見守りになられています。





近江大津宮 山城平安宮 山城嵯峨野
行程 御陵神社 上仙菩薩  賀美能宿禰 表紙

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