石鎚山(蔵王大権現・山岳信仰)

西日本最高峰となる石鎚山は深い歴史が刻まれた霊峰としても知られています。
石鎚信仰は飛鳥時代(六五七年)に役行者と法仙が龍王山(瓶ヶ森)で石土蔵王権現を感得して天河寺を開創したのが始まりとされています。
奈良時代には石仙により横峰寺が開かれ中腹常住に前神寺の前身となる堂が建立されました。そして黒川渓谷で修業をした寂仙(上仙菩薩)が行者堂を建立するなど石鈇蔵王大権現を称えて深く信仰して開山へと導きます。七五三年には芳元が紀伊より熊野権現を勧請。弘法大師空海も厳しい山岳修行を行うなど、石鈇山は山岳信仰や多くの修験道により賑わいを魅せました。

石鎚神社・石鎚信仰の由緒沿革
「石鎚信仰の母体、関西第一の高峰霊峰石鎚山(一九八二メートル)は、飛鳥時代(六八五年)に、役の行者(役小角・えんのおづぬ)によって開山されました。その後、寂仙菩薩が石鎚蔵王大権現と称えて深く信仰。山路を開き、登拝者を導き、常住社(中之宮成就社)を創立するに至りました。」




上仙菩薩と上仙菩薩之奥城

上仙菩薩は神野郡に鎮座する一宮神社(現在の新居浜市)の宮司実遠の子として誕生しました。
仏に帰依して仏門に入り、山岳・渓谷でのその厳しい修行の姿から「寂しくも孤高の仙人」と呼ばれるほどの僧侶であり、伊豫三名山となる笹ヶ嶺・瓶ヶ森・石鎚の霊山を開創して神野の地に萬願寺・正法寺・善正寺・上仙寺等の名刹を開基。
霊亀からの神仏習合(神宮寺併置等)に合わせた國可の神社創祀にも携わるなどしてこの神野地域の興隆に大きく尽力したと伝えられています。

後世となる平安時代には嵯峨天皇より菩薩号を賜り、開基を上仙とする七堂伽藍を有した石鈇山往生院正法寺(嵯峨天皇勅願寺)が建立されました。天皇家監修の日本霊異記・文徳実録などでも「石鎚の高僧」として謳われ、この新居郡(神野)の庶民からも「上仙さん」の名で愛され崇められたとあります。

現在、一宮神社の東方・新居浜郵便局の向かいに上仙菩薩の奥城と顕彰碑が建っています。ここは戦国時代(一五八五年)に起きた天正の陣による兵火で廃寺となった上仙開基の萬願寺の址地側であり、一宮神社の歴代宮司及び一族の墓所となります。

上仙菩薩之奥城の由緒には以下の文言が刻まれています。
「上仙菩薩は幼名を千寿丸と呼び、奈良朝時代に一宮神社々家矢野実遠の第二子としてうまれ、仏に帰依して仏門に入り寂仙法師とも呼ばれ、石鎚、笹ヶ嶺、瓶ヶ森等の霊山を開創したことが日本霊異記、文徳実録等に記されており、又萬願寺、正法寺、善正寺、上仙寺等の名刹を開き、地方文化と産業の興隆に力を尽くした高僧であった。殊に嵯峨天皇に深いゆかりを持った人であることを文徳実録に詳記している。上仙の帰幽後萬願寺の聖域近く墓所を作られ 矢野一族を始め地方の人々の崇敬を受けていたが昭和三十七年壬寅如月上仙の遠孫 矢野小春 その子文雄とはかり、笹ヶ嶺山麓早川よりこの碑石を採取し西条市下鳥山宮崎聖山に工を委ね万世不動の奥城を営み以て遠祖の霊を慰め永く上仙菩薩の遺徳を偲ばんとするものなり。昭和三十七年壬寅五月五日」

昭和三十七年に笹ヶ嶺山麓早川の室川天然石で祭祀されました。




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