天智天皇と近江大津宮
天智天皇六年(六六七)、中大兄皇子により斉明天皇の御時より都を置かれていた飛鳥岡本の宮から、近江大津宮への遷都が成されました。
大化の改新の理想に基づいた政治改革を行うためにこれまで都が置かれた飛鳥地域から離れたこの地で人心の一新を図る事となります。同族・同盟国であった百済救済を目的として新羅・唐の連合軍との間に勃発した白村江の戦いでの敗戦後、深刻化する本土侵攻の危機に備え、国土防衛のための態勢を整える中、その根幹として天然の要害であるとともに交通の要衝でもある大津への遷都を決心したと伝えられています。
天智天皇七年一月三日、称制七年を経て中大兄皇子は第三十八代日本国天皇・天智天皇として即位しました。
漏刻(水時計)を設置して時刻制度を開始。我が国では初となる律令法典・近江令(おうみりょう)が制定され、新たな大和国家が築き上げられて行きます。
公立教育制度の創始である勧学院を創立して全国規模での戸籍台帳・庚午年籍の作成。開拓や街道の整備など国土開発事業に力を注ぎ、天文・暦法・文化芸術の奨励など政治・経済・文化など後世へと繋がる多くの諸政策にご尽力されました。
近江大津宮錦織遺跡
近江大津宮(大津京)において残された史跡や歴史的建造物が乏しく、明らかにされていない点も多く近年に至るまでいずれも確証されないままとなっていました。
そんな中、天智天皇を大津宮を忘れまいとする人々から天智天皇を祀る神宮の創建運動が起こります。明治中期にはその声は益々高くなり、やがては昭和天皇の御勅許を賜わって近江の人々や全国崇敬者の真心の奉賛により昭和十五年に近江神宮創建となりました。
近江神宮は近江大津宮跡に鎮座されており、近江造りによる社殿は山麓の斜面に本殿と内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、国の登録文化財に登録されました。
全国十六社の勅祭社の一社として四月の例祭には天皇陛下の御名代として宮中より御勅使を御差遣いただいています。
昭和四十九年には大津市錦織一丁目の住宅地一画で発掘調査が行われ、内裏南門跡と考えられる十三基の柱穴が発見されました。この際、飛鳥時代の須恵器や土師器なども出土されており、錦織遺跡が大津宮の遺構と断定されるに至りました。
続けるように昭和五十三年二月にはこの建物跡周辺に多くの柱穴が発掘され、この錦織一帯が大津宮の中核部であると断定されるに至りました。その後もこの周辺地域での調査は継続的に行われ、大津宮の規模や建物の位置・構造などが復原されるまでに研究は進展され、昭和五十四年七月には国史跡指定となりました。
|
|